書評「習得への情熱―チェスから武術へ―:上達するための、僕の意識的学習法」

僕が高校1年生の時、柔道部の顧問だった担任の先生と三者面談で口論になったことがあります。口論のテーマは「一芸を極めること」でした。担任の先生は、「一芸を極める事が出来れば、他の分野にも応用が出来る。1つの事に集中して取り組めないやつが、他の事が出来るわけがない」という考えでした。一方、当時の僕は「15歳でやるべき1つの事なんて決められない。色々やることで自然と道が見えてくるはずだ」と主張しました。よく考えると、当時の僕は高校受験に失敗し、世の中や大人への不平不満をかかえて生きていた。ただただ、若気の至りで、自分の不満を先生にぶつけただけがする。でも、このやりとりは今でも思い出す事があるのは、「何かを習得する」という事について、とても重要な何かがあると思うからです。

なぜ、自分の高校時代の話をしたかというと、こんな本を読んだからです。読んだのは、「習得への情熱―チェスから武術へ―:上達するための、僕の意識的学習法」という本です。本書は、かつてチェスの”神童”と呼ばれた著者が、長じて卓越した武術家(太極拳推手の世界選手権覇者にして、黒帯の柔術家)となった著者が、トップクラスの競技者になるために、いかにして技術を身につけ、卓越した領域にまで引き上げるか、自らの思考と習得の歴史を、文章にまとめた1冊です。

技術を習得する過程を重視する

本書は、著者がチェスを始めた頃の話から始まる。自分がどのようにして技術を身につけたのか、チェスというゲームで対戦相手といかに向き合い、戦略を立て、戦術の実行力を磨き、そして対戦中にいかに相手や周囲との環境に左右されずに決断を下すのかといった事が、とても丹念に描かれています。翻訳の文章で、ましてや人の感覚に関する文章にもかかわらず、これだけ読みやすい本というのは、僕は読んだことがありません。

また、著者はチェスというゲームを通じて身につけた学習のプロセスを、武術家になるためのプロセスにも適用している。著者が凄いのは、「相手に勝つ」といった事を目的にかかげて学習するというよりは、自らの思考や技術を深める事を目的としていることです。つまり、結果より過程を重視しており、過程が正しければ、結果は自ずとついてくる。そんな考え方なのだと思います。興味深いのは、高い目標を掲げて何かに取り組むというよりは、目の前の少し手が届きそうな目標、というよりは目印に近いものを掲げて、少しずつ近づけるように取り組む事で、少しずつ技術や思考を深めていく。著者の取組を読み解いていくと、そんな進め方を選択していると感じました。

本書は、何か技術を身につけたい、技術を人に伝えたいといった考えをもっている人には、読んで損はない1冊です。個人的に誰に読んでもらいたいかというと、技術に関する文章を最近よく書いてらっしゃる、永里優季さんに読んでもらいたいかな、なんて。

おすすめ