人を惹きつけるのは知性ではなく野生。書評「失われた感覚を求めて」(三島邦弘)

内田樹さんの「街場シリーズ」、上阪徹さんの「書いて生きていく プロ文章論」、西村佳哲さんの「いま、地方で生きるということ」など、良質な書籍を出版し続ける出版社があります。その名は、ミシマ社。2006年に自由が丘に立ち上げたミシマ社は、2011年の東日本大震災以降、京都に新たに拠点を作り、二拠点体制をスタートさせます。

しかし、二拠点体制をスタートさせたことで、ミシマ社には様々な問題に直面します。その問題に著者とミシマ社は、七転八倒しながら、問題を解決しようと奮闘します。そして直面する問題を解決していくうちに、著者は自分自身の中に内包されていると思っていた、ある感覚が失われていたことに気がつきます。

本書「失われた感覚を求めて」は、2011年以降二拠点体制をスタートさせたミシマ社が、どのように歩みを進めてきたのか、その七転八倒ぶりをありのままに記録した1冊です。

失われた野生

僕は、著者が「失われた感覚」と表現したものは、「野生」なのだと捉えています。人には、生まれながらにして五感が備わっています。その五感を駆使して、目の前の出来事を判断し、前に進んでいく。それが、人間というより動物の生きる姿です。

ところが、現代の人間は、メディアの発達により、受け取れる情報量が格段に増えた結果、五感を駆使して何かを判断する機会を、自ら失っているのかもしれません。頭で理解したつもりで物事を判断し、手痛い失敗を被ったり、本来の自分を見失うなんてことになってはいないかと、本書を読み終えて考えています。

野生は人を惹きつける

余談ですが、七転八倒する人間の姿は、なぜ人を惹きつけるのでしょうか。矢沢永吉の「成り上がり」がわかり易い例ですが、あちらにゴツン、こちらにゴツン、と動く度に頭をぶつけながらも、前に前にと進む人のお話は、読んでいて思わず引き込まれますし、言葉にも熱がこもっています。

その理由は、頭をぶつけながら生きている人は、失われつつある「野生」がまだ残っているからではないのでしょうか。頭ではなく、自分の五感を駆使して、前に前にと進んでいく。そんな野性的な姿が人を惹きつけるのではないのでしょうか。

そして、そんな野性的な感覚が書籍に宿っていることが、ミシマ社が出版する書籍の魅力に繋がっているのだと思います。今後もミシマ社から出版される本を、一人の読者として楽しみにしたいと思います。

「競争してはいけない。競争は常に種に有害なものである。そしてそれを避ける方法はいくらでもあるのだ。」これが自然界の傾向である。(略)
人間のように防禦力の乏しい生物が、その原始時代に、他の諸動物と等しく保護と進歩との途を相互支持に求めないで、個人的な利害の暗闘に求めなければならなかったなどと主張するのは、これまた明らかに自然についてのすべてのわれわれの知識とまったく相反することである。(略)
無制限の個人主義は近世の発生物であって、原始的人類の特質ではない。
(ビョートル・クロポトキン、大杉栄訳「相互扶助論」)

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