閉じた空間で繋がり合うインターネットに未来はあるのか。

2013/04/25

最近、改めて糸井重里さんの著書「インターネット的」と「ほぼ日刊イトイ新聞の本」の2冊を読み直しています。改めて読み直すと、糸井さんが「インターネットとは何か」「インターネットで何が出来るのか」を理解した上で、ほぼ日刊イトイ新聞を始めたことを知り、改めてその先見の明と本質を掴む理解力に唸らされます。

「インターネット的」に書かれていたのですが、糸井さんが、インターネットの大きな特徴として、次の3つを挙げています。

  • 「リンク」
  • 「フラット」
  • 「シェア」

「リンク」「フラット」「シェア」という考え方は、インターネットの創世記の時は、当たり前の考え方でした。LinuxというOSは、リーナス・トーバルズという学生が無償公開したことにより、世界中の技術者が改良を手伝った結果、現在でもシステム管理用のOSとして世界中で利用されています。インターネットの世界は、「リンク」「フラット」「シェア」という考え方を理解した人々によって、運営されていました。つまり、「開かれた社会」だったのです。

ところが、最近こうした「開かれた社会」だったインターネットに大きな変化が起きています。

Googleで検索しても評判がわからない

先日「鈴木敏夫のジブリ汗まみれ」の中で、「桐島、部活やめるってよ」の作者の朝井リョウさんと、スタジオジブリプロデューサーの鈴木敏夫さんが語っていたのですが、最近のインターネットは「閉じた社会」になっているというのです。

具体例として鈴木さんが語っていたのですが、スタジオジブリの映画の記者発表を行った後、反応をネットで調べようとGoogleで検索しても、検索結果に評判が出てこないのだというのです。それは、最近のインターネットを使う人は、FacebookやLINEといった「閉じられた」コミュニティ内でコミュニケーションすることが多くなったからだと、鈴木さんは語っています。

傍観に価値が生まれている。

鈴木さんが語った事例に対して、朝井リョウさんは「傍観に価値が生まれている」という言葉で表現しています。どういう意味かというと、今まで独り言は、誰も聞いていないから独り言だったわけです。ところが、Twitterやニコニコ動画の登場により、面白い独り言が称賛されたり、批判されたりするようになります。今まで「傍観」されていた内容に、価値が生まれたわけです。

「傍観」されていた内容に、価値が産まれたことによって、優れた「独り言」をいう人がネット上で人気が出て、リアルの人気につながるという事例もありますが、今まで聞き流されていた「独り言」をみんなに聞かれるようになった結果、Facebookの機能にもありますが「誰かに読まれるのを拒否する」といった、「閉じられた中でさらに限定されたコミュニケーション」を剃る必要があり、現代の人々はストレスを抱えているのではないか、と朝井さんは語っています。

インターネットと現代社会

インターネット創世記に共有されていた、「リンク」「フラット」「シェア」という考え方は、ネットが一般化したことで失われつつあるのでしょうか。「書評:熱風2012年12月号 特集「PCがなくなる日」という記事の中の「ネットの一般化と炎上事件」という項目の中で、ネットで文字通り生活する「ネット住民」と現代社会のルールを持ち込もうとする人々との摩擦によって、炎上事件が起きるのだと書きました。

僕自身の考えとして、ネット住民と呼ばれる人ほど「リンク」「フラット」「シェア」という考え方の元に、インターネットを使っていると思われます。「リンク」「フラット」「シェア」というルールは、地位や功績によって発言の重みが異なるリアルの社会のルールとは異なります。「ネット住民」は一般社会では少数派に属します。「リンク」「フラット」「シェア」というルールをベースに、インターネットは劇的な発展を遂げてきました。しかし、ここにきてインターネットは大きな転換期を迎えている気がします。

少数派の意見はこのまま蔑ろにされ、インターネットにも現代社会のルールの方が重要視される時代が来るのでしょうか。そうなった時、インターネットに未来はあるのでしょうか。ふとそんなことを考えた次第です。

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