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「かぐや姫の物語」で浮かび上がる”あるひとりの女性の姿”

   

高畑勲の14年ぶりの新作「かぐや姫の物語」をようやく観てきました。観ている間、頭が痛くなるほど集中して観ました。それほど情報量の多い映画でした。なぜ、高畑さんは「かぐや姫の物語」を作ったのか。それは、「かぐや姫の物語」の新作発表記者会見で、西村義明プロデューサーが語った、以下の言葉に集約されています。

まず、第一に「かぐや姫は、数ある星の中から、この地球を選んだのか。そして、なぜ去らねばならなかったのか。答えられますか?」
(中略)
第二に、かぐや姫っていうのは、原作のなかで、少なくとも三年半くらいは地球にいるんですよ。
「そのとき、彼女は、三年半地球でなにをしていたのか。なにを考えて、なにを思っていたのか。これを答えられますか?」って言われて。
僕は分からなくて。

「じゃあ、第三に、原作のなかで、月に帰る前に、かぐや姫は自分の言葉でこう言うんですね。『私は、月の世界で罪を犯して、その罰として、この地に降ろされたのだ』と。あなたは、彼女の犯した罪とは、そして罰とは、なんだったのか。それを答えられますか?」って。
僕は、全部答えられませんでした。どれひとつとして。

「私の映画は、そのすべての三つの疑問、これに答えようとするのが、私の映画です。そのとき、この今の日本で、作るに価する映画が出来るはずだ」
「そのときに、あるひとりの女性の姿が浮かび上がるはずだ」

「かぐや姫の物語」に隠された三つの疑問。そして浮かび上がる女性の姿。それに、高畑さんはどう答えたのでしょうか。

なぜ地球を選んだのか。なぜ去らねばならかったのか

第一の疑問として提示された、「なぜ地球を選んだのか。なぜ去らねばならかったのか」。
竹取物語の原作にも、「かぐや姫は、罪を作り給へりければ、かく賤しきおのれがもとに、しばしおはしつるなり」という一節が書かれているそうです。つまり、かぐや姫は月の世界で罪を犯したため、地球へと送られたというわけです。

では、なぜ地球だったのか。それは、地球が欲望にまみれた世界。つまり、現世だからです。かぐや姫の物語のラストシーンでも、月の使者に仏の姿をした人が登場し、月の世界は「死後の世界」として描かれています。つまり、かぐや姫は、死後の世界、もしくは現世の世界で犯した罪を悔い改めるために、地球(現世)にやってきたというわけです。

そして、かぐや姫はその欲望にまみれた地球で、欲望に耐える生活を送ります。お屋敷に住んでも、外には出られない。よい洋服を着ても、手習いで書道や絵画を習っても、披露する相手がいない。会いたい人とは、会えない。自分の送りたい生活をおくることが出来ない。徹底的に欲望を抑えることが求められるのです。

そして、欲望に耐える生活が「嫌だ」と言った瞬間、かぐや姫は月に帰ることになるのです。つまり、月の世界に罪を償ったと判断されたからこそ、地球を去ることになったのです。それは、欲望のおもむくままに生きられる「天国」へと戻りたいという、意思表示でもあったのです。

地球でなにをして、なにを考えて、なにを思っていたのか

第二の疑問として提示された、「かぐや姫は、地球でなにをして、なにを考えて、なにを思っていたのか」。
原作の竹取物語には「いささかなる功徳を、翁つくりけるによりて、汝が助けにとて・・・」(わずかばかりの善行を、翁がなしたことによって、お前を助けにしようと・・・)」と月からの使者が言ったと書かれています。つまり、かぐや姫は「翁を助ける」ことが使命だったのです。

かぐや姫は、翁を助けるために、富を与え、地位を与え、不自由な生活を間接的に与えます。しかし、皮肉なことに、翁を助けようとすればするほど、かぐや姫は自分のおくりたいことができなくなり、益々不自由になっていきます。「かぐや姫の物語」の中で、自分のことを「ニセモノ」と語る場面があり、自分の意志のとおりに、人生をおくることが出来ない自身に対する苛立ちを現します。

自分のせいで、悲しんだり、不幸になる人が出る。人を助けるために生まれてきたはずなのに。かぐや姫は、自分の人生を恨み、苦しみます。それが、自分の犯した罪を償うための所業だと知らずに。そして、そのことに気づいたからこそ、かぐや姫は月に帰ることになるわけです。

かぐや姫の犯した罪

では、かぐや姫はの犯した罪とは何か。それは、映画の中でかぐや姫の口から、「私が地球に行きたいと望んだからだ」と語られます。地球に行くと望むということは、欲望にまみれた生活をしたい、もしくは「生まれ変わりたい」と望む事です。

死後の世界で「生まれ変わりたい」と望むということは、死を受け入れられない欲深きものとして、キリスト教でも、仏教でも、罪深きものとして扱われます。だから、国を問わず、人は幽霊やゾンビといった例えで、死にたくても死にきれない者の姿を、様々な形で描いてきました。かぐや姫は、幽霊と言うには美しすぎる姿かもしれませんが、描かれているのは、死にたくても死にきれなかった女性の姿ではないのでしょうか。

死んでもかぐや姫が「地球に行きたい」と望んだのは、なぜか。それは、地球にいて「かぐや姫」となる前の女性は、自分の欲望のおもむくままに生きていたのではないのでしょうか。お屋敷に住み、良い洋服を着て、そして男性をもて遊ぶ。かぐや姫が地球にやってきてからの行動を裏返すと、そんなことを想像をしてしまいます。

浮かび上がったひとりの女性

そして、3つの疑問に答えたことで、浮かび上がる「女性の姿」とは何なのか。これこそが、高畑さんが「かぐや姫の物語」を通じて、伝えたかったことなのです。映画の中で、かぐや姫という女性は、徹頭徹尾「思うとおりに生きよう」とする人物として描かれます。たとえ、自分の思うとおりにならないとしても、その姿は一貫しています。

そして、自分の欲望を叶えることを軸に、人生をおくる女性は、言い方を変えると「わがまま」に映ります。そして、そんな女性の姿は、欲しい物を求め、すこしでも良い男性と結婚しようとより好みする「現代の女性」の姿につながります。

つまり、「かぐや姫の物語」で描かれている女性は、はるか昔の女性の姿ではなく、現代の女性の姿なのです。女性の力が強くなってきている現代では、女性の姿は現代そのものです。(そして、女性を現代の象徴として一貫して描いてきたのが、スタジオジブリです、)そんな現代の女性の姿は「かぐや姫の物語」では、「罪」と表現されています。

しかし、映画の最後にかぐや姫は、全てを分かった上で「この世は生きるに値する」と語ります。なぜ、この世は生きるに値するのか。その事を伝えたいがために、高畑さんは8年もの歳月をかけて、独自の表現に挑戦してまで、この作品を作り上げました。

表現方法ばかり注目されますが、高畑さんが伝えたかったのは表現ではありません。高畑さんが伝えたかったのは、現代社会の歪んだ姿であり、日本という国が持っている国の美しさであり、幸せとは何か、です。それは、高畑作品で終始一貫して伝えられてきたメッセージです。

わがままなかぐや姫という姿をした現代は、どこに向かうのか。
観終わって、改めて深く考えさせられた作品です。

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